銀閣建立
「銀閣建立」岩井三四二 講談社
やれやれ、また武将者のお話しかいな、とあまり期待せずに読み始めました。
違った、大工のお話しでした。当時は番匠(ばんじょう)と呼びました。
幕府出入りの番匠は三組でした。
公方御番匠と呼ばれ、あまた番匠の中でも、そりゃぁ権威なのです。
先の公方、今は隠居しても権勢は従来通りの足利義政からの下命です。
東山の山裾に東山山荘を建てる、その総合デザインが示されました。
場所は浄土寺、寺を壊し、墓地を潰して建てるということです。
常の御所、山上の庵、あれやこれやの建物をコンペにかけます。
番匠は三組でも、コンペに出る案がみっつとは限りません。
同じ組からふたつ、みっつと出してもかまいません。
番匠の競争は、組の内から他の組まで、腕をかけて争わなきゃなりません。
腕だけじゃない、申次衆から同胞衆まで、根回し、付け届けを欠かすわけにはいきません。
もともと、応仁の乱以後のことで、幕府の権威は地に落ちています。
そこへ、公方の趣味だけのための山荘を作ろうというのです。
資金はありません。
新しく諸国段銭をかけたり、新関を設けて関銭を取る、民草の恨みは深く、一揆が続発します。
山荘の最後の建物に観音堂を建てることになります。
コンペがあり、勝って、観音堂の番匠を命ぜられました。
もう、資金が尽きたので、安く建てることも条件に入っていました。
今は放棄された今出川御所に、祖父の建てた亭がある、この亭を解体して組み直す案で、採用されました。
この亭が完成する前に、公方は亡くなってしまいます。
出来上がった亭は、今では慈照寺の銀閣、通称、銀閣寺と呼ばれています。
銀閣寺の山の上に庵があったのか、銀閣は新築のものではなく中古品なのか、
そこは小説家の頭の中なのか、史実なのか、突き詰めることもないでしょう。
この時代のころから、槍鉋から台鉋に変わって行ったもののようです。
組内の元締めの番匠は、時々の一番腕のええ番匠が仕切ったようです。
元締めの息子が元締めとは限らないようです。
腕が悪ければ、腕のええのが代わって仕切る、そんな取り決めのようです。
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