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2008年12月13日 (土)

新三河物語

「新三河物語」宮城谷昌光 新潮社
大久保彦左衛門の著述に三河物語がありますが、その本を底にして書いたものです。
大久保彦左衛門は一心太助とコンビということで、頑固もの、ひょうきんもの、そんなイメージがありますが、どうもそれとは違うらしい。
基本は、大久保家の氏の興隆、いっぱい大久保家のひとびとが出てくるのですよ。
巻頭の氏系図を見ながらでないと、いま話しに出ている大久保なにがしは誰のこと?しょっちゅう、巻頭の系図を見なきゃわけが判りません。

上巻、桶狭間で今川義元が死んで、ここから松平家、徳川家の国づくりが始まります。
中身はあらかた一向一揆、いかに一揆を鎮めて三河武士をまとめたか、ということ。

中巻、武田信玄との戦い、織田信長が本能寺で死ぬところまで。
信玄との戦で、三河遠江の小さな城をやった取ったというお話しで、あまりにローカルすぎて、巻頭の地図を何度も眺めながら読み進めていきます。

下巻、前半は、武田滅亡後、信濃の攻略、ここもローカルだよぉ。
後半は、大久保家の衰微。
家康の長男、信康が織田信長の命令で切腹させられます。
大久保何々が信長に呼びつけられて、信康の行状を詰問されますが、抗弁しようもありません。
上巻、中巻では、大久保家を重用して戦で大いに働きますが、家康は、息子を見殺しにした大久保一族を許さなかった。
家康晩年になって、恨みを晴らした、仕返しをした、こういうことのようです。
大久保一族で、身を全うしたのは大久保彦左衛門だけ、信康が切腹するとき、身の世話をしたことで、ひとり免れたようです。

大久保彦左衛門、講談や伝説では武のひとですが、書物を読み、生き方の指針を漢書や曽我物語に求め、剛直なひとだと書いております。
そういやそうだ、三河物語の著述を書き残したのだもの、単純な武のひとであるわけがない。

宮城谷昌光て、苦手だったのですよ。
漢や唐などの中国の武将のお話しが多い。
漢字がいっぱいで、みてくれは、ページ全体が真っ黒、読みにくいだろうな、と思っていましたが
あんがい、読めるもんです、ついていけるもんです。
晦渋、難渋な文章ではありますが、面白く読めました。

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