安芸高田、高宮・甲田を南北に往復(自転車篇)
上式敷の集落の終わりあたりで、毛利隆元逝去の地と看板が出ている。
尼子攻めの最終決戦で、毛利隆元も参陣した。備後国人の和智誠春の招きで馳走になった。そこで毒に当たったのか、どうなのか、この地で逝去してしまった。
三次市内に和知という地名があります。昔の和知村、戦に行く途中で、そこまで足を伸ばしたのだろうと思い込んでいました。毛利隆元、決戦を急ぐのに何を道草食っているのか。
和智誠春は近くの面山南麓の某寺に布陣していたのだそうです。ここからならば遠くない。饗応に応じてもよい距離なのだ。饗応を断ればメンツをつぶす距離なのだ。
今まで、何か変だな、腑に落ちないな、と疑問に思っていたのが解消しました。毛利隆元も和智誠春もごく近くに陣を敷いていたのだ。それなら納得。毒殺事件が、あったか、なかったか、は別にしてね。
くいくいと登って、野部の集落までやってきた。ここから面山に入って行くのだ。
「安芸高田市高宮町、今度は登った、面山、面山城址」、「安芸高田市高宮町、面山に登れず」登れなかった道ではなく、登れたほうの道はここから進むのだよ。
先ほどの毒殺事件、和智誠春は面山の南麓に布陣していて、毛利隆元は面山の北麓に布陣していたのだ。
あのね、毛利隆元の息子の毛利輝元は暗愚の将として有名です。智将・隆元が生きていて、毛利軍を率いていたなら、もっと毛利家は違った動きになったんじゃないかと思うのですよ。
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