庄原比和、三河内の[つなぐ棚田遺産]を行く(自転車篇)
登り坂を経て峠に至る。峠からは谷が見渡せる。ここが三河内の谷なんだよ。ここを自転車で二回通っている。
三河内と言っても広いのだよ、南は勝光山から西城との境界に沿って、井西山、福田頭、池ノ段、比婆山、烏帽子山、吾妻山と、ずっと三河内なんだよ。江戸時代のころは三河内村と単独だったのだろうと思うよ。
三河内の読み方だけどね、国土地理院の読み方は[みつがうち]、郵便局の郵便番号での読み方は[みつがいち]、[みつがいち]のほうが世間の呼び方だと思うよ。
おおざっぱに言えばここも三河内なんだが、大字小字でいうと、ここらへんは小和田で、小和田北、小和田東、小和田南と分れているのだよ。
最初は小和田の西の谷を見ている。なだらかに南西方向に棚田が下がっている。
西の谷と東の谷の間にくさびのように尾根が取り残されているのだよ。両方の谷を見下ろす位置に寺がある。慶雲寺、曹洞宗。
寺の前の道から棚田が見え、三つ子山が見え、西城との境界の峠(坊地峠)に今櫛山が突き出しているのが見える。
三つ子山という名前に影響されて南の三連山を三つ子山と間違えるのじゃないよ。三つ子山とは名ばかりで単独の山なんだよ。たんぼからの眺め、三つ子山と今櫛山。
谷の中の道は東西に分れる。西に向かえば単純に下りるだけ。東に向かえばもっと複雑なコースが取れる。東に向かおう。
この谷は、「つなぐ棚田遺産」に登録されているのだ。もともとは棚田百選があった。発展解消して271個の「つなぐ棚田遺産」が選定されたのだそうな。
つなぐ棚田遺産の一覧マップがここにあります。それぞれの地方ごとに拡大してみてください。
なぜここ小和田に棚田が開拓されたのか。それはね、かんな(鉄穴)流しの結果なのだそうな。
たたら製鉄では砂鉄を木炭で溶かして玉鋼を生産する。その砂鉄を採集する方法がかんな流しなのだ。上流の水の流れをせき止めて一挙に流す。土砂は下流に流れて、比重の重い砂鉄が残る。
砂鉄を取った跡は開墾したのと同じ状態なのだ。そこを棚田に区切って稲を栽培した。これが小和田の棚田の起こりなのだ。
東の谷を走っているうち、直進するか、右折するか、迷うところに出てきた。地図的な広がりを求めるなら直進だよなぁ。センターラインが引いてあるのは右折して谷を横断する道だ。
右折する道にする。水流で攻め切れなかった尾根の部分を突っ切って、西の谷のメインの道に合流した。
少し下がると、東の谷の出口と合流した。これで三河内の棚田探索はおわり、谷の出口へ向かっていく。
国道432号線に合流した。ここは木屋原下、比和のメインコースだけに、自転車で走った記録がある。
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